ワタシのターニングポイント−アルピニスト 野口健

更新日:06/10/31

7大陸最高峰最年少登頂記録を樹立、エベレスト清掃登山。さまざまな記録と活動で知られるアルピニスト・野口健さん。メディアで目にする機会も多く、表舞台で活躍してきた印象を持つ人が多いではないだろうか。
しかし、原点は「落ちこぼれ」と自ら語るように、ターニングポイントを繰り返して今日にたどりついた。大きく方向を変えた転機について、野口さんの本音に迫ってみた。

落ちこぼれから生まれ変わったのは、この出会いがあったから。

仮進級になった直後、停学処分に。

仮進級。野口健さんが中学から高校へ進む時、学校側が下した判断だ。外交官だった父親の仕事の関係で、野口さんは小学6年生の時、イギリスにある全寮制の学校へ転校。基本的には小中高エスカレーター式だった。
「落ちこぼれでしたね。全寮制の厳しい規律の中で生活態度も悪かったので、教師には『あいつを進級させると悪影響』と言われました。一方で『悪い人間じゃない。エネルギーを良い方に使うべきだ』ということで、「仮」に進級が決まったわけです。生徒会の選挙権は剥奪され、同級生からは『カリカリ』と呼ばれ、ひどい状況でしたね」。
しかも、その仮進級中、ケンカをして人を殴ってケガをさせてしまう。学校から言い渡された新たな決定は、停学だった。
「高校ぐらいは卒業しろ」と言われると予想して、野口さんは父親に報告。返ってきたのは「やめたければ、やめてもいいぞ」という言葉だった。
「これからは学歴社会じゃない。一流大学を出て一流企業に勤めても、引退したら何も残らない。どうせ生きるなら、『野口健』が肩書きになる生き方をしろ」。

すべては、この一冊から始まった。

停学中、本来は謹慎中なのだが、父親の勧めもあって、野口さんは日本に帰って来て関西地方を旅する。途中、ふらっと立ち寄った本屋でなにげなく手に取ったのが、植村直己さんの著書『青春を山に賭けて』である。
「植村さんの名前を見ても、最初はピンと来なかったですね。小学校の教科書に登場してたな、ぐらいの感覚で。なんとなく読みやすそうなので買ってみることにしました。実際読んでみたら、登山家としてのサクセスストーリーというよりも、植村さんの“放浪記”といった印象。山のことも厳しく書いていないんですよ。なんか楽しそうなんですよね。エベレストもサラサラと描かれていて、後に登ってみたら大変でしたよ(笑)」。
この一冊を機に、植村さんにまつわるノンフィクションや、山岳雑誌などを熱中して読むようになる。そして、その年の冬には、富士山、八ヶ岳、高校2年生でモンブランに挑み、山登りが始まった。

大学入試の面接で「初公約」。

一冊の本を通して植村さんを知り、山登りを始めた野口さん。この出会いがターニングポイントになったのは、あくまでも「タイミング」だと話す。
「学校に居場所を見つけることができず、どうにかしなくてはと焦っていた時期。何かを求めてピンピンと触角が出ていたと思うんですね。危機感のなかで、学校から続く一定の流れとは違う生き方を新鮮に感じたり、植村さんの世界観やあたたかさにふれ、人間・植村直己に強くひかれました」。
植村さんとの出会いを運命的と意識した決定的瞬間は、野口さんが初めて「公約」をした時。なんと、大学入試の面接会場でのことだ。当時、大学は「一芸一能入試」を行っており、スポーツや芸能などのジャンルで相当に実績のある受験生たちが集まっていた。優勝経験や成績を一生懸命にアピールするほかの受験生たちの話を聞きながら、野口さんはふと考えた。「みんな過去のことばかり。今から“これをやる”という明確なものがないじゃないか」と。
そこで、いきなり野口さんは未来の年表をつくりだす。年号とともに大学入学、南米最高峰登頂、北米最高峰登頂、そしてエベレスト登頂などと明記。その年表を示しながら「在学中に、最年少で世界7大陸最高峰に登ります。実現できなかった場合には、責任をとって私は大学を中退します」と初公約。その瞬間、アルピニスト・野口健が誕生した。同時に、植村さんの存在の大きさを悟ったのだった。

いよいよ野口さんのアルピニストとしての挑戦が始まった。初めての「公約」の結果、その後の展開。自身の思惑よりも先に、どんどん人生が進み出す。

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